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巻きスレをどうするか

 投稿者:5円玉コレクター  投稿日:2017年 8月18日(金)16時08分25秒
返信・引用
  50円白銅貨及び100円白銅貨には多くの機械(自動)巻きによる、巻き傷が目立ちます。
管理人様の言うところの中特年にも私のコレクションにも散見されます、排除するのがベスト
ですが何か勿体ない気がしてそのままにしております。今は葛藤中。29年銘は未だ入手出来ておりません。
前に何処かで見た記憶があり、つい先日から平成元年の100円を集めております、斜打が多いとのこと。
取りあえず100枚集めてみます。
 
 

50円白銅貨 中特年

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月16日(水)19時39分50秒
返信・引用 編集済
   前回まではギザ有の10円の手変わりについて説明した。初年度の昭和26年銘から順に各年度ごとに書き抜かした説明と画像を新たに付け加え後ほど説明したい。今回は2017年の『収集』誌に千葉一良先生が連載されている50円白銅貨について金融機関から「中特年」を探してみた結果を紹介したい。

 場所は水戸市の金融機関であり1000枚を見てみた。8月14日、15日の2日間である。2日で22枚の「中特年」を発見することができた。参考にしていただけると幸いである。なお、平成27年銘と平成28年銘も発行枚数は多いながらも「中特年」に入れさせていただいた。

銀行ロール20本合計1000枚の中特年の年号別枚数の内訳

年銘    枚数
昭和60年 0枚
昭和61年 0枚
平成12年 1枚
平成13年 0枚
平成14年 2枚
平成15年 4枚
平成16年 3枚
平成17年 4枚
平成18年 2枚
平成19年 0枚
平成20年 2枚
平成21年 0枚
平成26年 0枚
(平成27年 2枚)
(平成28年 1枚)
平成29年 1枚 ※中特年になる可能性が高い

合計22枚

  50円白銅貨は年号だけ調べればよく10円の手変わりと違い拡大鏡を使わないため目が疲れないことが利点である。なかなか面白いと感じたが昭和61年後期、昭和59年Cb型も同じで自分は趣味に没頭していると感じるひと時である。
 

10円青銅貨の手変わり(8)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月15日(火)20時51分53秒
返信・引用 編集済
  13.最後に

現行10円青銅貨の手変わりは通常貨・プルーフともに多くの年銘に見ることができます。これからも徐々に掲載していくつもりです。また、収集人口が主に初心者と考えられることから容易な文章で記述しようと考えています。

多くのコレクターや貨幣商に公開されるため稀少価値の非常に高いものや現品未確認のものなどは今後店頭販売されたりオークションに出品されるようになるかもしれないのでどちらの立場に立ってもいい条件だと思う。これをきっかけに手変わりブームの到来を期待したい。手変わり表示されて若干高値になっても稀少性が極めて高いため未使用状態での入手は困難と思えるがそれでも欲しくなる貨幣はいくつかあります。コイン業者の手変わり分類表記により解消されるといい。

貴重なプルーフ貨幣5円青銅貨を見せてくださった(株)銀座コイン代表取締役 竹内祐司氏には感謝をしきれない。同時に店頭に持参して鑑定依頼をしていただいた昭和59年Cbタイプの貨幣は鑑定の結果、本物であることが確認されました。この超稀少手変わり品の未使用を見つけた時は知らせて欲しいと尋ねると断られましたので皆はかなり高価なコレクションをされているということが分かりました。また、(有)寺島コイン、手変わり分類および比較・参考にさせていただいたコインショップ隆泉ほかヤフオクでお世話になった方ほかに感謝の意を表します。

(つづく)
 

1円、5円試鋳貨 平等院鳳凰堂

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月14日(月)18時57分37秒
返信・引用
  12.試鋳貨 1円青銅貨、5円青銅貨

昭和26年銘の試鋳貨に1円青銅貨と5円青銅貨のものがあります。第28回銀座コインオークションに出品されているLot.922の5円青銅貨の試鋳貨を下見させていただいたがエッジにギザはなかったと記憶している。図案は10円青銅貨と同じ宇治平等院鳳凰堂「前期」めんどり(短い尾) 鳩型鳳凰でした。当時の最高貨幣はギザ有10円青銅貨幣だったことが分かります。なぜ造幣局はこの貨幣を製造したのだろうか。
この試鋳貨の年銘である昭和26年という年は、昭和25年6月25日に勃発した朝鮮戦争の影響で、製造中だった十円洋銀貨がニッケル相場高騰のため不発行となり、新たに十円青銅貨が造られ始めた年である。朝鮮戦争が長引き日本が有利になることを期待して作られたとも考えられる。『収集』誌2007年8月号で神吉先生が「現行5円アルミ打ち試鋳貨について」で発表されているので興味のある方は読んでもらいたい。仮に朝鮮戦争による影響が大きく長引き材質まで変更するようになると5円アルミ打ち試鋳貨となり、日本経済に大きなプラスとなる要因が大きければ青銅に材質変更しても良いと当時の造幣局は考えたのではないだろうか。昭和27年に朝鮮特需があったことをみると歴史や時代背景などからそのように言えるだろう。

過去に5円青銅貨は出品されたことがありますが銀座コインの「名貨コレクション卓上カレンダー」にも使われたほどで「日本貨幣カタログ」にも掲載されておらずとても貴重なものといえる。この5円試鋳貨は現行の10円青銅貨の4.50gよりも一回り軽く、直径も小さい。この貨幣が520万もの高値で落札されました。驚愕の価格です。参考価格(下値)が40万円でした。


追記 下見の際、縁(エッジ)にギザはありませんでした。やはり当時の最高額面の貨幣はギザ有10円だったということが分かります。

Lot.922 試鋳貨 3.13g プルーフ5円青銅貨幣 (第28回 銀座コインオークション現品)

 

10円青銅貨の手変わり(7)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月13日(日)20時14分35秒
返信・引用 編集済
  ※ Aaに類似2タイプ(型) 昭和27年後期、28、29、30、32、33年


「後期」 おんどり(長尾)or 鶏型鳳凰

次に、昭和27年後期から極印が鶏型鳳凰のおんどりに変更されました。そしてこのAaに類似2タイプが33年まで続くことになります。『日本貨幣カタログ』では02‐8になっています。『日本貨幣カタログ1994 特集』1993年、285頁によると、「ギザ有の10円青銅貨には屋根の上の鳳凰に大小があります。小さいほうが26年型、大きいほうが28年型です。」と説明されています。本貨幣は28年型のものです。「後期(長尾)」をおんどりor鶏型鳳凰と呼んでいます。前期と後期の違いはAaに類似1タイプで詳細に述べました。orは「もしくは」と呼び代えてください。各自の好みに合わせて手変わり名称を付けてみるのも面白い集め方です。

両方とも鳳凰の形状のみで判断できる分かりやすい局所変化(単独手変わり)です。

本貨の交換は極めて順調で日本銀行は十円銀行券を発行後2年3か月の昭和30年4月1日、支払い停止とすることができたのである。かくて十円以下を補助貨とする通貨体制がようやく成るに至ったのである。

(つづく)
 

10円青銅貨の手変わり(6)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月12日(土)19時55分0秒
返信・引用 編集済
  11.枝氏より頂いた冊子 PDFファイルでないのではっきりしません。ご了承ください。「culture」

近代貨幣手変わり研究会会長の枝重夫氏によると『ボナンザ』誌19巻5号、1982年に手変わり集66に短い尾を「前期」とするめんどり、長い尾を「後期」とするおんどりの論文を発表されました。昭和26年銘すべてと27年前半に製造された貨幣を短い尾として「めんどり」と称し、「前期」。昭和27年後半に製造された貨幣は実物に近く長い尾に修正されているため、「おんどり」と称し、「後期」とする。一方、神吉廣純先生は「前期」を鳩型鳳凰、「後期」を鶏型鳳凰という名称を付けられています。そのため「前期(短尾)」をめんどりor鳩型鳳凰と呼びます。なお、このほか首が長くなり起きていることも変更になった点です。そして、昭和28年以降鳳凰の形状はすべて「後期」になっています。枝氏の調査によると、同じくらいの割合で発見されている。 筆者の調査によると、やや「後期」のほうが多い。いずれにせよ存在率に極端な差が出ていないためプレミアムは付かない。最近、銀座コインの「入札誌」銀座、レトロコインをはじめ極印分類され手変わり区分がされ始めた。

(つづく)

 

10円青銅貨の手変わり(5)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月11日(金)20時19分23秒
返信・引用 編集済
  10.大量の10円青銅貨を集める方法


地元の研究会に行くと、どのようにして10円硬貨を集めているのかの質問がありましたので紹介します。10円青銅貨を大量に入手する方法として金融機関を利用しています。出金が無料の金融機関を使っています。金種指定をして出金をします。枚数制限はありません。ただし、損貨つまり、重量の違いやギザ十などで痛みの激しいものやエラー貨幣は機械ではじき出され日本銀行へ返却されるということです。そこの金融機関では当然ですが損貨は渡してもらえませんでした。そのことから自動販売機のほうがギザ十などコレクター向きの貨幣に出会える可能性が高いといえます。筆者は同じ自動販売機は10円青銅貨を10枚入れ、3回だけにしています。地元の眼もあるし、変な目で見られているかもしれない。そのため、自動販売機は最近では全く使っていません。
今までは地元の大きな地方銀行を利用していましたが有料になり今のところは無料の金融機関を使わせて頂いています。

(つづく)
 

Re: 勉強になります

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月10日(木)20時08分30秒
返信・引用
  5円玉コレクター様

こちらこそ勉強になります。まとめるのに夏なので時間が取れなく更新が滞っています。
昭和61年後期、他の稀少価値の高い貨幣のコレクションもしなければいけません。
自分の文章で他人にもわかりやすい文章で伝えるように心がけます。

『収集』誌などの情報も暗記するまで読んでいるところです。文章にも書き方に様々な特徴があり非常に参考になります。
資金がなく書籍を購入することにしました。
どうもありがとうございます。

> 知っているようで、知らないことがわかりました。今後ともよろしくお願いいたします。
> 学生の頃一度訪れたことがありますが、あまり関心がなくただ訪れただけです。
>
 

10円青銅貨の手変わり(4)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月10日(木)19時46分36秒
返信・引用 編集済
  9.平等院鳳凰堂面極印の解説


※ Aaに類似1タイプ(型) 昭和26年~27年前期



「前期」 めんどり(短尾) or 鳩型鳳凰



まず、「ギザ有」の十円で前期のものを説明します。『日本貨幣カタログ』では02‐8になっています。ヨーマンカタログでは73になっています。これをAaに類似1タイプと呼ぶことにします。ギザ有はエッジにギザが刻まれていて昭和34年以降のプレーン・エッジのものには別の貨幣カタログ番号02‐9が付けられ、ヨーマンカタログでは73aとなっています。カタログ上は別な貨幣として扱われます。

この手変わりは、鳳凰形状の違いに着目したものです。これは日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣9』東洋経済新報社、1975年、272頁に記載されているため手変わり分類に入れました。それによると、「なお、肉眼では識別が難しいが、表面の屋根の両端にある鳳凰の尾は、当初製造分では垂れ下がっていなかったが、27年後半製造分から現在の形に改められた。」と記載されたのが初めての文献になります。さらに、郡司勇夫編の『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、1981年の295頁に10円銅貨の解説があり、「表面鳳凰堂の屋根の両端にある鳳凰の尾翼の形が実際と異なっているのが発行後問題となり、記年昭和27年の後半製造分から原型が修正された」と述べられています。つまり、昭和26年に新発行になった10円貨幣すべてと昭和27年前期の尾の形は間違いで昭和27年後期の発行分から正しい尾の形になるわけです。筆者が大学生の頃、昭和26年銘と昭和27年後期の尾の拡大画像を掲載されている冊子を全員に配布されたことで具体的な場所も分かったわけです。今から32年前に年号別コインアルバムの空欄に昭和27年前期と後期と書いたシールを張り2枚一緒に集めていたことを思い出して懐かしい。現在、10円の手変わり収集をする原因でもあり、そのことが初めて10円の手変わりと出会ったきっかけになるとは思いませんでした。もう一つは近所の公立図書館に寄った際に「日本貨幣カタログ」に昭和61年前期後期の図と説明が書かれていたことです。それ以来、昭和61年を見つけると前期だとか選り銭を始めることになりました。15倍や22倍の拡大鏡を揃えました。流通貨からの後期の存在率など調査するのが至福の時です。後期の未使用は入手できないのでPCGS MS64RDをヤフオクから落札したりしました。スラブ入りで同じ状態のものを2枚所有しています。

(つづく)
 

勉強になります

 投稿者:5円玉コレクター  投稿日:2017年 8月10日(木)09時19分37秒
返信・引用
  知っているようで、知らないことがわかりました。今後ともよろしくお願いいたします。
学生の頃一度訪れたことがありますが、あまり関心がなくただ訪れただけです。
 

10円青銅貨の手変わり(3)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月 9日(水)19時27分30秒
返信・引用 編集済
  7.10円青銅貨の平等院鳳凰堂の部位の名称および説明

●平等院鳳凰堂

 京都府宇治川のほとりにある。古くは源(みなもとの)融(とおる)の別荘であったが、後に藤原道長を経て頼道(よりみち)に伝えられ、末法に入ったとされる1052(永承7年)に頼道は天台系の寺として平等院を開き、翌年に定朝作の阿弥陀如来像を建立した。これが今日の鳳凰堂です。



 鈴木和三郎先生は翼楼という部位・名称を用いていますが、翼廊(よくろう)が正しい呼び名です。実物は翼廊・尾廊を持ちその姿は池に映り、東面しているので、西に向かって極楽浄土を拝する形になる。鳳凰堂のいわれはその形が鳳凰に似ているとも、阿弥陀堂の棟に鳳凰が対で乗っていることにあるともいわれる。


中堂は基壇上に立ち、低い床を持つのが特徴である。一重で裳階(もこし)がつく。翼廊では二重虹梁蟇股が観察できる。我が国の寺院の最高傑作である。(濱島正士 監修 青木義脩 編集・執筆「文化財探訪クラブ3 寺院建築」山川出版社、2000年、110頁)。


 彰国社『建築大辞典』によると、「1053年完成供養。3間×2間の中堂、8間×1間の両翼楼、7間×1間の尾廊から成る。中堂は高さ12.7mの入母屋造りの楼造りで定朝作の丈六阿弥陀如来像を安置し、平安時代の絵画・彫刻・工芸の粋を尽くす。本瓦葺。」と記載されています。


8.鳳凰

●文化財を守る宝物収蔵庫

昭和期になると、昭和25年に鳳凰堂の荒廃を危惧する人々の尽力で、昭和の修理が始まった。修理は7か年に及ぶ解体修理で、鳳凰堂の修理はほぼ昭和31年暮れには完了した。
昭和32年3月19日より3日間、修理観光を祝う落慶供養が各宗派の僧侶出仕の下で挙行された。修理完工当時は、ようやくわが国の経済・社会も安定し始め、人々の心にも古社寺を訪れ、心の安らぎを求める余裕が生まれてきた時期であった。平等院は新たに観光寺院としてスタートを切ったのである。
他方、修理完了後も境内の整備は続行され、また新たに保存維持のための事業が寺独自で進められていった。

当時問題となってきた公害から文化財を守るために、宝物収蔵庫の建設が計画され、鳳凰堂の八面の扉絵、屋上の鳳凰、そして梵鐘の模造を造ることになる。

昭和40年5月に除湿保温の設備を備えた収蔵庫(宝物館)が竣工し、鳳凰堂の現状変更による鳳凰が専門家の指導の中で進められていった。また当時ようやく問題となった公害状況の中で、屋上鳳凰と梵鐘の保管のために復元模造の仕事が専門家の指導により行われた。

昭和43年12月25日に新造の鳳凰が屋上に飾られ、昭和47年11月に一対の鳳凰などが収蔵庫に収められ、翌48年より、収蔵庫を宝物館と改め、春秋二回一般公開がなされるようになった。


●平成の大改修

平成13年(2001年)3月に竣工した新宝物館「鳳翔館」は、国宝・重要文化財の収蔵環境の改善と、先端技術を導入した登録博物館としての資格を持った保存体制が整備された。

高さ8.5メートル、地下一階、地上一階の建物で、外観は、史跡名勝庭園の景観と調和のとれた洋風建築で、内部には、鳳凰、梵鐘、雲中供養菩薩像二十六躰のほか、庭園より出土した鬼瓦や軒瓦、院内二か所の仏像や、古図や古文書類を展示するとともに、超高精細画像で、国宝を詳細に観察でき、コンピュータグラフィックスによる復元映像も展示されている。(山本敦「魅惑の仏像 阿弥陀如来」毎日新聞社、2001年、85頁)。


●鳳凰

鳳凰 めんどり(鳩型鳳凰)/おんどり(鶏型鳳凰) □で囲んだ部分





現在の鳳凰堂の屋根上の鳳凰は2代目となります。鳳翔館で収蔵展示しておりますのは、国宝に指定されている創建時の鳳凰です。昭和修理後の昭和40年代に大気汚染の危険から守るために降ろされました。その代わりに屋根上に上がったのが、現在の2代目鳳凰です。まったく同じ大きさ形をしています。その2代目鳳凰が鍍金をされて金色となっています。

10円硬貨の鳳凰堂は昭和修理前の姿をしていますので、屋根上にはオリジナルの国宝鳳凰が描かれています。

秋山光行ほか『平等院大観 建築1』によると、「鳳凰は想像上の鳥で、しかも最高位の鳥である。鳳凰像のある宇治の平等院は、永承7年(1052)に関白・藤原頼道により寺が開かれ、翌年に阿弥陀如来を納める阿弥陀堂(別名「鳳凰堂」)として建立されたものである。現在は国宝として、また世界遺産にも指定されている貴重な歴史的建造物で、鳳凰像の現物(屋根の上についていた「初代 鳳凰」)は、屋外で風雨に曝されると昭和修理後の昭和40年代に公害物質で金属が腐食する恐れがあるため、国宝の文化財として青銅色のままで国宝に指定されている創建時の鳳凰が鳳翔館に収蔵展示されており、建物の屋根にある一対の鳳凰像は2014年に修復されたレプリカで、銅製の金メッキされたもの(二代目 鳳凰)であるため、黄金色に輝いている。」と述べられています。

鳳凰についても古代の中国から聖人とともにこの世にあらわれた雌雄一対の霊長で、雄を「鳳」、雌を「凰」と呼び、この想像上の鳥は梧桐(ごとう)もしくは(青桐)と呼ばれる木に棲み、醴泉(れいせん)の甘い水を飲み、竹の実を食べるという。五色の羽を持ち、その鳴き声は五音の妙なるもので、すべての鳥の王者として尊ばれている。その姿は、頭前方は、雄の麒麟(きりん)、後方は鹿、首は蛇、尾は魚、背中は亀の甲羅、顎は燕(つばめ)、嘴(くちばし)は鶏(にわとり)、尾は孔雀に似た鳥で、龍と同様に天子を美化し、あるいはおめでたい時に使用される(植村 峻「紙幣肖像の近現代史」吉川弘文館、2015年、42頁)。

(つづく)
 

現行10円青銅貨の手変わり(2)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月 8日(火)18時52分8秒
返信・引用 編集済
  「造幣局125年史」35頁では、昭和60年の国際科学博覧会のデザインを公募する際に、「貨幣模様として採用する場合には修正を加えることがある」ということから、貨幣にするうえで不適切と思われる個所は別なデザインにするという内容が書かれていたので造幣局の工芸官があえて図案を変更していることが分かります。それと同じ理由で宇治平等院鳳凰堂も様々な箇所で省略されています。



3.手変わりの定義

手変わりとは、同じ貨幣でありながら、デザインや書体の細部に微妙な違いがあることを意味します。「鳳凰の足の長さの違い」「国の文字形状の違い」「日本国の文字の太さの違い」など、様々な手変わりがあり、コレクター独自による研究が進んでいます。「貨幣の評価ポイント」では、「状態の良さ」「稀少性」「人気のデザイン」が重視される。

ギザ十はあくまで「古いタイプの10円硬貨」という意味で、完全未使用品でない限り、すべてのギザ10にプレミアムが付くことはありません(竹内俊夫「お宝貨幣なんでも読本」講談社、2013年、128頁)。

つまり、種類の異なる極印で撃たれたものを指します。別名「変種コイン」とも言います。①政策上の仕様変更、②デザインの変更、③極印の製造過程で発生したデザインの変化 などが挙げられます。現行貨幣の手変わりの定義が研究者によって様々であることが複雑にしています。「手変わり用語の基礎知識」を要約すると、年号別収集が完成したらそれで終わりというわけではなく、こうした奥の深い楽しみ方もあるわけです。ただし、贋造対策や技術上の理由によるところが大きく、稀少手変わりにプレミアムを付けて店頭販売することは収集界独自のものです。個人的には極端に高値で販売されることは望んでいません。収集家一人一人が自分の満足する方法で集められることが一番いいわけです。

現行コインの年号別収集で満足することもいいかもしれませんが今は10円青銅貨の手変わり別収集が一般のコレクターの間では盛んです。特に初心者たとえば中学生などこれから貨幣収集を始められる方にお勧めしたいジャンルです。状態、グレード、スラブ入りコイン、銅貨の光沢の割合や、ネット販売やオークションでは鑑定書の証明書番号を入れて照合・確認したりするなどして、写真の写り具合など様々な要因で一枚の価格が違ってきます。あらゆる銅貨に該当するので良い材料といえます。筆者が小学生だった昭和48年頃は手変わりという概念はありませんでした。聞いたことがありません。おそらく近所の百貨店では近代銭に手変わり表示されることがなくブームが去ってしまったのでしょう。


4.基本的な分類方法は宇治平等院鳳凰堂の図案のみに着目しました

基本的な分類に関する考え方や語句の使用法に関しては神吉廣純先生の『日本貨幣カタログ1994・特集』、『収集』2006年9月号、2012年7月号にできる限り準拠するように努めた。そのため宇治平等院鳳凰堂の図案に着目して分類しました。明らかに誤植だと思われる点は自分なりに改良した部分もあります。平成以降は、鈴木和三郎先生の『日本の現行貨幣‐収集の手引き‐』2011年に従ったところが多い。
なお、鳳凰形状の違いは次に紹介する27年前期と後期だけにして、その他の年号に見られる鳳凰の足の太さ、細さ、眼の違い、唐草模様などについては割愛しました。あまり細かく分類すると何倍までが許容範囲なのかなど混乱を極める恐れがあるためです。神吉、鈴木両先生の良いところを取り入れ、良くないところは除外しました。


5.文字の太さ、幅の違いは手変わり分類にふさわしくない

2012年10月に『収集』より神吉先生の文章をFAXで送っていただいた。その内容はほぼ次のようであった。ただし、文字や幅の違いは極印使用途中の研磨作業等によって変わってくることなので、太さや幅の違いで別種と分類するのは良くありません。また、銀貨用に製作された10円青銅貨の宇治平等院鳳凰堂のような繊細な図案は流通したものでは傷などによって図案が変形したり鮮明でなくなったりすることが多く見られるため、並品で手変わり分類することは適当ではありません。仮に、神吉先生だったらこのように分類するであろうという分類方法にしました。
最も、「造幣局125年史」には、昭和61年度に極印印面の機械研磨の技術改良がされ今まで手作業しかできなかった極印表面の模様や文字の肌部分の研磨を、特殊研磨剤とともに遠心式バレル研磨機を用いることにより、極印全体を研磨できるようになると書かれているためコンピュータで製造され始めたことが分かります。

もちろん、その他にもコレクター独自の手変わり分類がされてもいいと思う。この分類方法は筆者の分類方法だとこのようになるという一つの指針を示しただけに過ぎない。近年、数年前までは手変わり表示されてはいなかったが銀座コインオークション、ミントプラスオークション、泰星コインオークションなど手変わり表示されて出品されているものを見かけるようになった。手変わり表示されると基本的に価格は高値になります。従って手変わり表示されても評価は変わってほしくありません。


6.大手オークションや店頭販売でも手変わり表示されているのを見かけるようになる

10円の手変わりは大手のオークションサイトにも常にみられるようになったジャンルです。ここ4年くらいになると思う。どの分類方法が正しいのか指針がないに等しいためコレクションに悩むと思われる。2016年11月13日(日)、東京大手町で行われた催事(第14回東京コインショー)に訪れた際に、業者の店頭にも手変わり表示され高値で販売されているのを初めて見かけた。その時は昭和56年前期後期の未使用品が2枚で2000円の高値で店頭販売されていた。これらはありきたりに見られる手変わり品で珍しいものではありません。勉強次第ではこうした手変わり品を一般市場で通常価格で見つけることができます。稀少価値の高い手変わり品も見つけられるというわけです。コイン商でミントセットにしか見つからない平成11年Ciタイプを見つけた時の快感は今でも覚えています。今までも昭和27年前期後期、昭和56年前期後期の区別はコインホルダーに手変わり表示されていましたが価格差に違いはありませんでした。
(つづく)
 

現行10円青銅貨の手変わり(1)ギザ有

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月 7日(月)20時58分33秒
返信・引用 編集済
  1.はじめに

昭和25年に製造開始の10円洋銀貨幣は、朝鮮戦争勃発によるニッケルの価格が急騰したために発行されず、翌26年、10円青銅貨幣が製造されることになった経緯については先月号で紹介させていただいた。10円洋銀貨幣は一般に流通はされなかった。不発行貨とは形式(素材・品位・直径・模様)が決定し、法令によって公布されながら、発行されなかったものを呼んでいます。そのため、10円洋銀貨幣は不発行に終わった。

1951年(昭和26年)9月、第二次世界大戦の対日講和条約であるサンフランシスコ平和条約が調印された。また、昭和27年にはIMF(国際通貨基金)に加盟し、昭和28年には「円」の値は純金0.00246853gとなった。28年1月5日頃、庶民の日常取引では補助貨幣を使わせる方針をとった。10円紙幣の回収は進んだが通貨流通量は減った。

1953年(昭和28年)1月5日、10円青銅貨の発行・流通が始まった。発行開始年月日は、日本銀行の窓口支払開始日をもってこれにあてた(日本銀行設立後)。貨幣は昭和26年末の10円青銅貨幣の制定により、1円、5円、10円の3種の円単位の貨幣がそろい、また、26年末には日本銀行券B50円券が発行された。

 今回は、現行銭の手変わりの定義と宇治平等院鳳凰堂の各部の名称について貨幣にするうえで実際とは異なるデザインになった点が見られることなど、各手変わりについて極印の変化に着目して自分なりにまとめてみたい。この文章では、「刻印」ではなく刻印と同じ意味を持つ「極印」という用語を使わせていただく。



ここでは、文献である鈴木和三郎著『日本の現行貨幣‐収集の手引き‐』内外貨幣研究会、2011年以降新たに発見された研究成果を踏まえ、手変わり最新情報として取りまとめ、広く公開することを目的としています。


2.デフォルメされた平等院鳳凰堂の貨幣のデザイン

『収集』2006年9月号、16頁で神吉先生は「十円青銅貨の平等院鳳凰堂は実物に忠実に描かれているように見えて、実は細部ではかなりデザイン化かつ省略化されており、実際の平等院鳳凰堂とは微妙に形状が異なっている。」また、松尾『日本のお金-近代通貨ハンドブック‐』によると、「貨幣デザインの原案は、造幣局の工芸官の手によって作られる。貨幣デザインを作成するにあたり、美術的側面と工業生産における機械的な精度や偽造防止対策などの技術的側面を合わせて、両者のバランスを勘案しながら、貨幣として最も優れたデザインを原案として作成する。」と説明されています。

宇治平等院鳳凰堂鳳翔館ミュージアム学芸員によると、「立体的なものをデフォルメして平面に彫刻しているのでわかりにくい」と言われています。例えば、芸術作品を目指した“木彫り熊“と呼ばれる北海道の定番土産がこれに該当し、熊彫り発達史の中、日本画家が指導し芸術性が加味され、彫刻家も加わり彫り方の研究もされた。



●現行10円青銅貨の基になった昭和大修理前の本当の姿(宇治平等院鳳凰堂)

現在までこの図案が使われ続けています。しかし、手変わりと呼ばれる微細に異なった図案が使われています。
 

不発行10円洋銀貨幣

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月31日(月)21時41分6秒
返信・引用 編集済
  不発行10円洋銀貨幣について

1.はじめに

現在流通されている10円青銅貨の手変わり収集をするにつれ、また分類を自分なりに調べていくうちにどうしても10円貨幣の歴史が必要だということが分かった。収集誌1983年3月号に「表紙説明 不発行洋銀10円」として紹介されているがおよそ30年経ち入手困難なことと、様々な資料・文献が絶版や品切れになっているため改めて説明する。内容に関しては、すでに承知な方が多いと思いますがご容赦いただきたい。

今回は朝鮮戦争の勃発のためニッケル相場が高騰したため不発行になり市中に出なかった10円洋銀貨について取り上げる。日本銀行調査局編『図録日本の貨幣9』東洋経済新報社、郡司勇夫『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、大蔵省造幣局『造幣局100年史」1976年、青山礼志編『新訂 貨幣手帳』他の資料に類似している点が多いということをお許しください。

2.戦後のハイパーインフレーションの収束と24年度のドッジ・ライン強行実施

第二次世界大戦直後の数年間は、戦争による生産力の破壊と外地からの引き揚げ等による人口の急増などの諸要因により急激なインフレーションに遭遇した。しかし、終戦特有の急激なインフレーションは、昭和24年頃を境にして小康状態になった。それは23年12月18日にGHQが経済安定9原則を発表し、予算均衡・徴税強化等を指示したことを基本として経済は安定化した。さらに、24年2月にはデトロイト銀行頭取ジョセフ・M・ドッジが公使兼GHQ財政金融顧問として来日し、いわゆるドッジ・ラインが実施されるようになった。ドッジ・ラインは、24年度の予算を超均衡予算に編成し、かつ単一レートを設定して、アメリカからの援助と国内補助金を切り捨て、インフレを克服して日本経済の自立を達成しようとするものであった。ドッジ・ラインの実施や朝鮮戦争の勃発による活動水準などによるものである。

ドッジ・ラインが実施された結果、高進を続けてきたインフレは沈静化に向かったが、一方、産業界は一時深刻な不況に見舞われた。復興金融国庫から放出される資金は途絶え、財政の需要は抑制され、税の徴収は厳しくなり、有効需要は伸び悩んだ。企業は大幅な人員整理を行い、またコスト切り下げを行ってこれに対処した。
この年、ドッジ・ライン実施による不況、物価上昇は終わり安定恐慌になる。すなわち消費者物価指数(CPI)は前年比8%も下落し25年度は16%も下落した。

昭和24年4月15日、ドッジ公使は昭和24年度の予算案について超均衡予算の実施、補給金の廃止など健全財政主義の徹底を強調した。この計画の中で戦後の国民生活、経済復興を経済再建に効果的に振り向けるための対日援助見返資金が設けられた。また、GHQはインフレ経済の終始を前提として、1ドル=360円の単一為替レートが設定され、世界経済体制への復帰の方向が定められた。

3.経済安定9原則を基調として経済は安定に向かう

23年12月18日、経済安定9原則を基調とする経済の安定に伴い、10円以下の通貨はすべて補助貨幣に代え、通貨体系を整備するという方針の下に、昭和25年(1950年)、「臨時通貨法」を改正して十円貨を追加した。素材は洋銀(銅・ニッケル・亜鉛の合金)としたが、同年の朝鮮戦争勃発によりニッケルの輸入が困難となり、国内のニッケル価格が急騰して洋銀地金の入手が不可能になった。そのため、一般に告示されながら十円洋銀貨幣はついに発行されなかった。

4.A10円券を置き換える目的で10円洋銀貨の製造に入る

『造幣局百年史』によると、「昭和24年12月28日には日本銀行券B1,000円券が制定され(大蔵省告示第1048号)昭和25年1月7日から発行され、昭和21年(1946)2月17日制定の日本銀行券A十円券が硬貨に置き換えられることになった。

新10円貨幣については戦前の白銅貨に匹敵するものを製造することとし、素材は各国でもあまり例のない洋銀」(German silver)を選び、昭和24年10月連合国総司令部から10億枚の製造許可を得、昭和25年3月2日に臨時通貨法を改正(法律第3号)10円臨時補助貨幣制定3月臨時通貨。昭和25年3月2日、10円臨時補助貨幣の形式制定(政令第26号)も公布された。

『図録 日本の貨幣9』を要約すると、10円洋銀貨の素材には戦前の白銅貨と同様に銅・ニッケルを含む洋銀(洋白ともいう)が選ばれたが、ニッケルは海外資源に依存しなければならなかったために加えて造幣局の手持分も少なかったので、素材節約の必要上、耐食性を損じない程度の16~18%にニッケルを抑え、銅55~60%、亜鉛29~22%の組成にしたうえで、量目20.00g、直径20.00ミリ、孔径5.00ミリ、厚さ(参考)1.36ミリとし偽造防止も兼ねて有孔とした。

備考:表は銘価を中央に縦書きとし孔の両側に茶の木を配し、裏は上に國名、下に年号、孔の周囲に幾何学的曲線(鉄線模様・六角形模様)を配した。



(Wikipediaより引用)

小額紙幣のA10円券は表面左右の意匠は「米」「国」をかたどっているなどと全く根拠のないうわさがあり、28年7月には衆議院においてもこれが取り上げられ、10円券の補助貨幣切り換えを促進する一因となった。新しい高額面の補助貨幣10円洋銀貨がこれで、24年10月にGHQの許可を得て、25年3月13日から製造が開始された。製造期間とは圧印作業開始日から検査作業の最終日をいう。

『図録日本の貨幣9』を要約すると、銀行券の特徴は、25年から銀行券もA券に代わってB券が発行されることとなり、その際、新たに千円・五百円の高額券が初めて発行され、十円以下の少額券が発行されなくなったことである。これはインフレ高進の結果、高額券が必要となってきたこと、および高額券の発行によってインフレ心理が再燃する懸念がもはやなくなったと判断されたためであり、さらに、インフレによって通貨価値が下落し、十円以下の小額通貨は補助貨によるほうが適当と考えられた。そこで政府は、十円も補助貨に転換することとし、25年3月から十円洋銀貨の製造を開始した。

23,24年当時のA10円券発行残高はほぼ100億円強の水準を維持していたので、これに代わる10円洋銀貨は、当初、25年から3年間に100億円(10億枚、うち初年度6億枚、2年度3億枚)を製造する計画であった。ところが、製造開始後間もない25年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ニッケルの地金相場が急騰したため、もともと軍需の多いニッケル地金は入手困難になり、造幣局手持資材のみでは2年度の製造枚数は当初計画の半分以下の1.4億枚しか見込めないという窮地に陥った。そこでやむを得ず、製造計画全体を7億6640万枚に縮小したが、その後も事態は改善せず、26年5月31日にニッケル使用制限規則(通商産業省令第35号)が公布されたため、同年8月17日に洋銀貨幣の製造を打ち切ることになった。この時までの製造高は746、474、581枚にとどまった。

『造幣局百年史』によると、「この朝鮮戦争によって、造幣局で製造中の洋銀貨幣の素材の一部を占めるニッケルが軍需資材としての需要を増し、相場の上昇を示し、昭和26年5月31日にはニッケル等使用制限規則が制定され(通産省令第35号)第2条で8%以上のニッケルを含む洋銀の使用も制限されるようになったので、当初3か年で10億枚を製造する計画であったものを7億4647万4000枚に変更し、昭和26年8月をもって製造を打ち切ることになったが、朝鮮戦争の戦局に伴う国内事情から遂に1枚も発行されなかった。」と記載されている。

ところで製造計画全体の縮小・変更した枚数が大蔵省造幣局『造幣局100年史』では7億4647万4000枚であり、日本銀行調査局「図録日本の貨幣9」の7億6640万枚と異なっているがどちらが真実なのか定かでないが実質製造枚数7億4647万4581枚に近い『造幣局百年史』の記述が正しいのではないだろうか。

洋銀貨幣を発行した外国の例では、ベルギー、ポルトガル、エルサルバドルに見られる程度で極めて少ない。だいたい洋銀は白銅のニッケルの一部を亜鉛に置き換えたもので通常、装飾器具、家庭器具、精密機械及び計器用のバネ材として用いられている。洋銀貨幣は製造で最も問題となったのはわが国では産出しないニッケルの供給が円滑に運ぶかどうかであった。

そこで極力資材の確保に努め、造幣局保有の純ニッケル、白銅貨幣鋳潰地金などのほか硫酸ニッケルを購入して電解精製したり(25.2.9 洋銀貨幣材を補うためニッケル電解精製作業開始)、スクラップを買い集めこれを分析して品位を明らかにして配合に努力するなど、種々苦心を重ねた結果昭和25年から製造を開始した。有孔としたのは素材使用量の節減と偽造防止の見地からである。出来栄えは満足に値するものであったが、昭和24年当時の10円日本銀行券の流通高は113億9,477万円に上っていたので、10円洋銀貨幣を徐々に発行すると物珍しさも手伝い退蔵される恐れがあったので相当の製造量に達したうえで発行するのが良いという日本銀行側の見地から製造済み貨幣はすべて造幣局で保管することになった。

製造分7億46,47万6,000万枚はそのまま造幣局で保管されていたが昭和26年10月に経済安定本部から大蔵省から造幣庁に対し、洋銀貨のニッケル地金を産業界(民需)に払い下げるよう要請があり、11月2日、大蔵省に対し洋銀貨の溶解(鋳潰)を指示した。溶解された地金から、ニッケル約350トンは主要産業に払い下げられ、かつ青銅をもって10円補助貨幣を製造するようにと正式に通知してきた。そして26年度の臨時補助貨幣製造予定高は5円黄銅貨幣16、000万枚、10円青銅貨幣26,000万枚に変更、27年度は十円青銅貨幣52,000万枚の製造予定とすべく旨の指令を受けた。

5.銀貨用図案を流用の十円貨

造幣庁ではかねてから10円洋銀貨幣の製造ができなくなった場合の用意に新しい10円貨幣の形式、素材、図柄などについて研究を進めていたが、結局資材面から青銅貨を適当であると認めたのである。かつての1銭青銅貨幣に近い素材で10円青銅貨幣を発行することになり、26年から製造が開始された。新10円青銅貨幣の形式は品位銅950、亜鉛40‐30、錫10‐20、直径23.5ミリ、量目4.5g、厚さ(参考)1.50ミリで表模様は平安時代の代表的な寺院建築の一つである宇治の平等院鳳凰堂を表したものである。10円青銅貨幣は26年度245,624,393枚、27年度4月中に43,616,347枚計288,640,740枚をすでに製造している。


 銅1262トンは次に述べる10円青銅貨の製造に充てられたが、形式が制定され、大量に製造されながら発行されなかったのは明治4年以来今日に至るまで、この10円洋銀貨のみである。(1)

(1)大正7年5月制定の八咫烏50銭・10銭銀貨に、それぞれ数千万製造されながら流通市場には出さなかったが、一応日本銀行に引き渡されているので、形式的には発行されたことになる。

『造幣局百年史』、郡司『日本貨幣図鑑』の7億4647万4581枚に比べ、日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣9 管理通貨制度下の通貨』東洋経済新報社、1975年、日本貨幣商協協同組合「日本の貨幣-収集の手引き‐」によると、製造分746,476,000万枚となっており定かでないが『造幣局百年史 資料編』の数値とは食い違いが見られるためどちらが正しいかは分からない。製造途中の段階の枚数なのかもしれないが、次に述べるように25年度と26年度の製造完了の貨幣は合計すると実質製造枚数は7億4647万4581枚となるのでこちらが正しいのではないだろうか。

6.10円洋銀貨幣は大阪の造幣庁本局、広島支局で製造される。


最も信頼の有る『造幣局百年史 資料編』によると、年度別・局別貨幣製造高の箇所に記載がされている。

昭和25年度

昭和25年4月1日から昭和26年3月31日

596,459,586枚

大阪本局 497,446,732枚

広島支局 129,012,854枚

昭和26年度

昭和26年4月1日から昭和27年3月31日

150,014,995枚

大阪本局 130,013,000枚

広島支局 20、001,995枚

両者を合計すると製造枚数は7億4647万4581枚となり、実質製造枚数になる。

参考までに、洋銀貨製造技術上の問題点を見てみると、素材をスクラップに依存したため、鉄、マンガン、鉛などの不純物を除去して規定の品位にする必要があり、同じくスクラップしようとはいえ黄銅貨とは比較にならない困難があった。しかも、不純物を完全には除去できなかったので、材質が硬くなって圧延の際に割れ目を生じたり、鋳棒に気泡が入ったり、その後の圧窄(あっさく)作業でも不合格品が出るなど、製造工程の最後まで難渋したと言われている。(3)



(3)もともと洋銀は熱間圧延性が悪く、大量製造に適さない金属であるため、高額補助貨向きの色相・光沢を有しながら、諸外国でもその採用例は少ない。僅かに、ベルギー・ポルトガルなどで見られるに過ぎない。

7.供試貨幣
供試貨幣は造幣庁長官第77年報書(昭和25年度)、造幣庁長官第78年報書(昭和26年度)より74,581枚となっている。日本銀行金融研究所貨幣博物館に10円洋銀貨は展示されているためすべてが溶解もしくは鋳潰されたわけではないことが分かる。なぜ収集界に存在するのか理解に苦しむ。

『造幣100年』によると、「発行高とは、造幣局から日本銀行へ引き渡された貨幣の数量および金額を言い、製造高とは、発行高と貨幣大試験用供試貨幣を含めたもので、発行高よりはやや多い。通常、供試貨幣は大試験が終わると再溶解される」。

8.十円青銅貨(26年12月制定)

十円洋銀貨の発行計画放棄後、十円通貨の需要増大が見られたため、A十円券の増刷(当初の計画比5割増し)およびB五十円券の新規発行(26年12月)が実施され、通貨の補助貨幣化は一時後退を余儀なくされた。しかし、このような状態を長く続けるわけにはいかず、二十六年八月、A十円券の発行残高116億円をカバーするに足る120億円、12億枚の十円補助貨を同年度から3年間に製造する当初の計画が策定された。素材金属については造幣局でも早くから研究していたが結局、青銅に落ち着いた。青銅合金の95%を占める銅の所要量約5700トンの確保に関して、造幣局保管分2250トン、洋銀貨溶解分1262トン、黄銅貨回収分788トン、経済安定本部割当約1400トンなど、目途が付けやすかったからである。

このようにして、十円青銅貨は26年10月から33年12月までの間に1773百万枚製造され、28年1月5日日本銀行窓口から支払いが開始された。

昭和26年になってから十円貨の素材については再検討が行われ、青銅貨とすることにして、同年12月7日(第372号)制定「1951年(昭和26年)12月7日政令第372号「十円の臨時補助貨幣の形式等に関する政令の一部を改正する政令」されることとなった。新制定のものは表面宇治平等鳳凰堂に唐草、裏面は月桂樹の抱き合わせ(常盤木)、洋銀貨では付けられなかったが、側面にキザミ(ギザ)が付けられた。縁にギザがついている(ギザ十と呼ばれる)。この貨幣のギザの数は132個である。昭和28年当時、ギザは硬貨の周囲を磨き取られることを防ぐためのもので、識別ミスを防ぐ意味からも最高額面の硬貨に付けるのが慣わしであった。

当時の十円の日本銀行券は大量の流通量であったが、青銅貨を全国一斉に同時発行し、可及的迅速に銀行券と交換し、並行時期をなるべく短くするという方針を立て、制定後製造開始から発行にいたる期間を長くし一挙に交換ということにし、昭和28年1月5日から流通が開始された。したがって記年は昭和26年からあるが、発行は昭和28年からという、前例のないやり方であった。

9.高額貨用の極印が流用されたという十円貨「平等院50円銀貨(現行10円青銅貨と同様のデザイン、現存不明)」

今日も引き継がれている宇治平等院鳳凰堂の図案は、実は将来製造することになるであろう五十円銀貨のために作成されたもので、銀を予想していたため、非常に細かい線で構成されており、屋根の上、左右に配されている鳳凰の雌雄まで区別されている。それから貨幣に美観をもたらす要素の一つである衣装、これは模様のことだが、元造幣局長の太田満男氏が次のような寄稿を行っている。「十円貨幣の図案は当初、高額貨(地金は銀)を予定して作られたものが、急に変更の必要性が生じて流用されたと聞いている。したがって、模様を構成する線は非常に細かく、屋根の雌雄の別(?)がはっきりわかるぐらいに芸の細かいものである。」(石原幸一郎『日本貨幣収集事典』原点社、2003年、264‐265頁)。

ちなみに鳳凰は雄を鳳といい、雌を凰という。50円銀貨が実現しなかった今日となってみると、十円貨幣の突然の改定が幸いして、この芸の細かい模様を目にできるわけである。なお、当初の十円青銅貨はギザ縁で、昭和34年の改定でプレーン・エッジ(平縁)に変更された。

『新訂 貨幣手帳』222頁やボナンザが廃刊になり著作権を引き継いだ 石原幸一郎『日本貨幣収集事典』原点社、257頁、『写真記録 日本貨幣史』日本ブックエース、写真記録刊行会編では、十円青銅貨が市中に流通された日時について製造開始後約1年を経た昭和27年9月と記載されているが誤植であり、正しくは昭和28年1月5日である。筆者は当時の新聞を図書館で調べてみたり、造幣局や日本銀行に問い合わせてみたので間違いはない。

表面鳳凰堂の屋根の両端にある鳳凰の尾翼の形が実際と異なっているのが発行後問題となり、記年27年の後半製造分から原型が修正された。ここにはじめて10円青銅貨の手変わりが見られる。本貨の交換は極めて順調で日本銀行は十円銀行券を発行後2年3か月の昭和30年4月1日、支払い停止とすることができたのである。かくて十円以下を補助貨とする通貨体制がようやく成るに至ったのである。

なお、前述の五円黄銅貨と十円洋銀貨は昭和24年4月新定の「当用漢字字体表」により、「國」字は「国」とすべきであったが、原型が出来上がっていたため、旧字体に依っている。昭和26年制定の十円青銅貨からは「国」字となっている(郡司勇夫編『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、1981年、265頁)。

昭和26年銘の10円青銅貨幣には金属分析をしてみたところごく微量だが金が混入していることが分かる。噂が本当であった事例で、当時まだ貨幣資材にスクラップを使っていたために起こった珍事であった(青山『新訂 貨幣手帳』ボナンザ、1982年、222頁)

10.おわりに

次回からはいよいよ10円青銅貨(通常貨・プルーフ)に分けた手変わり分類について説明する。特に表面の「宇治平等院鳳凰堂」の各部の名称と手変わりについて着目し、分類した。昭和27年前期後期は鳳凰の形状について詳しく説明したい。特に今回少しだけ取り上げた昭和27年前期の雄型鳳凰と後期の雄型鳳凰などについても写真入りで紹介するつもりである。また世界遺産登録された宇治平等院鳳凰堂の各部の名称を決めるにあたり公式ホームページでの実際の名称と貨幣にした時の名称が異なっているということで非常に悩ませた。明治・大正時代に製造された1円銀貨や50銭銀貨などの近代貨幣の略した名称に倣った。平等院ミュージアム鳳翔館学芸員に伺ったことにより正確な回答も得られたので紹介したい。岩波書店から出ている『平等院大観』の建築編が昭和修理後となりますが鳳凰堂について一番詳しい書籍となります。図書館などで参照してみてはいかがでしょうか。
 ちなみに昭和25年から昭和32年まで鳳凰堂は大修理を行っています。修理中に10円硬貨が発行されました。つまり10円硬貨の姿は昭和修理前の姿です。?

昭和61年後期と昭和62年プルーフ(2種類)に関しての手変わりの関係も新たに発見したので報告したい。これは「日本貨幣カタログ」に掲載されている昭和61年前期・後期の比較の図と着眼点が一箇所加わったことが新しい分類方法である。

また、1円と5円試鋳貨 宇治平等院鳳凰堂の青銅貨についても写真説明したい。


主要参考文献

造幣局泉友会『造幣100年』大蔵省造幣局、 1971年。
大蔵省造幣局『造幣局80年史』1953年。
大蔵省造幣局『造幣局90年史』1963年。

大蔵省造幣局『造幣100年』1971年。
大蔵省造幣局『造幣局100年史 資料編』1974年。
大蔵省造幣局『造幣局100年史』1976年。
大蔵省造幣局『造幣局125年史』1997年。

日本銀行調査局編『図録日本の貨幣9』東洋経済新報社、1975年。
郡司 勇夫『日本貨幣図鑑』東洋経済新報社、1981年。
大蔵省理財局国庫課長 松尾良彦監修『日本のお金-近代通貨ハンドブック』1994年。
造幣局泉友会編『コインの歴史』創元社、1984年。

青山礼志編『新訂 貨幣手帳』ボナンザ、1982年。
石原幸一郎『日本貨幣収集事典』原点社、2003年、264‐265頁。
写真記録刊行会編『写真記録 日本貨幣史』日本ブックエース、2012年、171頁。

湯本豪一『図説・円と日本経済‐幕末から平成まで‐』図書刊行会、2010年、203頁。
小島恒久『日本経済の流れ』河出書房新社、1973年。

稲毛満春『マクロ経済学入門』有斐閣新書、1977年。
肥後和夫『財政学要論 第4版』有斐閣双書、1993年。

日本貨幣商協同組合『日本の貨幣-収集の手引き』1998年。
日本貨幣商協同組合『日本貨幣カタログ2017』2016年。
書信館出版『収集』。

茨城県立図書館
水戸市立図書館
茨城大学図書館

※枝 重夫氏は近代貨幣手変わり研究会会長です。
 

Re: 2017年 CCF

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月28日(金)21時57分24秒
返信・引用 編集済
  > No.2457[元記事へ]

落札者様

本日、参加してきました。開場間際は大混雑で低額品コーナーでは待つばかりでした。目の前で自分の欲しいものを購入されるのを見ました。アンケートを素早く記入し、会場に入ればよかった。

10円手変わりでも稀少価値の高いものを購入してきました。貨幣セットをすべて購入して崩すのが一番状態のいいものが手に入るし、稀少価値の高いものも入手が容易です。お勧めします。

> ・2017年 CCF(コイン・コレクション・フェア-)
>
>  2017年7月28~30日(30日はオークションのみ)
>
> ・2017年CCFオークション・第44回日本コインオークション
>
>  2017年7月29~30日
>
>  品川プリンスホテル メインタワー22階
 

Ci型

 投稿者:5円玉コレクター  投稿日:2017年 7月27日(木)16時36分57秒
返信・引用
  平成10年銘は銀行からでも傷があり特に左宝珠に少しでも傷があると迷ってしまいます。
ハッキリ切れ目なしは1枚のみ。884枚見ました。尚惜しい物が8枚あります。

 

平成10年 左宝珠:切れ目無、階段切れ目有 Ci型をゲット

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月24日(月)18時38分29秒
返信・引用
  平成10年Ciタイプ 左宝珠:切れ目無、階段切れ目有 を見つけました。

流通貨からは初めての入手で、今まではミントセットの中でしか見つけておりません。
唯一、コイン商より見つけだしたときは最高に嬉しかった。
CCFでも10円の稀少手変わりが見つかることを期待しています。
特に低額品ブースで。

もう一人手変わり品を見つける人がいればより正確性が増すだろう。
いずれにせよ誰かが稀少価値の高い手変わり品を発表しない限りはプレミアムは付かないと思います。
 

銀座コイン 第84回入札誌「銀座」

 投稿者:落札者  投稿日:2017年 7月19日(水)22時58分17秒
返信・引用
  先ほど届いていました。

銀座コイン 第84回入札誌「銀座」

下見期間:2017年 7月20日~8月10日
入札締切:2017年 8月10日午後4時
 

2017年 CCF

 投稿者:落札者  投稿日:2017年 7月18日(火)22時05分32秒
返信・引用 編集済
  2017年 CCF(コイン・コレクション・フェア-)

 2017年7月28~30日(30日はオークションのみ)

・2017年CCFオークション・第44回日本コインオークション

 2017年7月29~30日

 品川プリンスホテル メインタワー22階
 

おめでとうございます。CCFが楽しみです

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月13日(木)20時32分8秒
返信・引用 編集済
  ギザ10円コレクター様

> 昭和61年10円3000枚達成しました。
> 結果
> 前期2980枚
> 後期  20枚

これはものすごい枚数で驚きです。私はネットオークションで入手したり、古銭会で入手したり、金融機関などから手に入れていますがこのようにはできません。素晴らしいことです。10円玉と言って笑いの種にする人が多い中頑張られたと思います。おめでとうございます。

昭和59年階段型Cbタイプにもプレミアムが付くことを期待しています。
CCFで未使用「スラブ品」があれば手変わり表示されていても購入する価値があります。
61年後期よりはまだ評価は低いと推測されます。「日本貨幣カタログ」に掲載されてからでないと高値にはならないと思う。

CCFでは昭和40年粗稲穂 短いヒゲ 15000円です。ヤフオクにも出品されたことがあり、14600円入札件数27でした。2016年12月31日22時20分終了。この銀貨も欲しいですが資金が問題になっています。10円のスラブに興味があります。

> 今度は昭和34年1000枚を目標にしております。

少ないですが数えるまで時間と枚数がありません。困った悩みです。ロールをほどき拡大鏡で見る時間がありません。手も汚れます。
 

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